BIOGRAPHY

幼少時代

夏子は父の顔を知らずに育った。父のドメスティック・バイオレンスから逃れ、母は物心つかない夏子と山梨の実家に戻る。祖父が始めた牛乳屋を手伝うことになった。
毎朝バイクで牛乳配達に行く母の背中を見て育つ。まっ黒に日焼けしバイクにまたがる母。女物の服を着ていた記憶もない。
アレルギーがひどく、ほとんどの食品に反応し、食べられるのは白米とうずら豆の甘い煮豆だけ。小学校に上がって給食が食べられるようになったのは、母の工夫と献身。

篤志家のお寺「西称院」が経営する加納岩保育園に通い、ひとりっ子の夏子を住職一家は自宅でもよく預かってくれた。宴席があると夏子は中曽根美樹の「川は流れる」などを、大人顔負けに歌い盛り上げたりした。母はいつも「一茶の子守歌」。戦時下の女学校時代、音楽の先生がメロディを付けた曲。母は晩年までこの歌を愛した。

小学校時代

1963年、山梨市立加納岩小学校入学。母の手伝いをしながら、「峠の我が家」などをよく歌った。2年生の頃から原因不明の偏頭痛に悩まされる。視界が狭くなり吐き気に襲われ、激痛が走った。何度も検査入院をした。高学年になり合唱部に入る。NHK合唱コンクールで県大会優勝し、東京大会へも出場。夏休みの強化練習中に作曲家の川口晃氏が来校し、指揮をとってくれた事がある。声も伸びやかに気持ちも乗り、ミラクルにかかったように歌が輝いた。歌う喜びとの初めての出会い。

中学校時代

1969年、山梨市立日下部中学校に入学。偏頭痛は続く。山梨の病院では間に合わず、東京での度重なる検査を強いられた。やむなく1971年、中学3年に単身上京。杉並区立東田中学校に転校し、二子山部屋の近くで従兄弟と東京暮らしが始まる。しかしイジメに遭い不登校に。ある日、街の中華屋で新大久保の「フィルハーモニー合唱団」のチラシを見つけた。それは、サラリーマンを始め様々な職業、年齢の人達が集う大規模なアマチュア混声合唱団。学校にも行かず終電までオラトリオのパート練習に打ち込んだ。ハーモニーの美しさに涙が出たという。

高校時代

担任の遠藤先生が、寮のある高校探しに奔走してくれた。1972年、東京立正高校へ進学。校内英語スピーチコンクールで優勝するも、寮生活には馴染めず、西荻窪でひとり暮らしをする。祖父の訃報が思いのほか応えて声が出なくなったり、摂食障害も起こす。この頃、近所にあったシャンソン喫茶「シャンソン・フレール」に同級生と出入りするようになる。

不登校を回りの大人達が心配し、1974年、地元の県立山梨高校へ編入したが、ここでも適応できなかった。いたたまれず、牛乳の集金袋からお金を持ち出し、京都に家出。格安旅館を探し、しばらく滞在。お寺の住職を尋ね歩いたりする。持金も尽きかけた頃、同室の年上女性に促され、帰る。

心配する教師たちを、娘を信じる母は毅然となだめた。京都で書いた日記には、母への愛と反撥入り乱れた思い、己の不甲斐なさを綴っていた。

1975年、東京立正高校へ戻り、家業の牛乳屋を清算した母も上京、母娘2人で東中野に住む。家計を助けようと近所のスナックでアルバイトを始めると、大盛況でママを任される。オーナーに初めて銀巴里に連れて行かれ、「こんな歌の世界があるのか」とカルチャーショックを受ける。西荻窪「シャンソン・フレール」で知り合った山本雅臣氏(歌手/訳詞家)から、「今度歌をみてあげる。」と誘いを受けた事が、ターニングポイントになり、歌にのめり込んでいく。

銀巴里まで

就職はしたものの、歌いたい一心から辞めてアルバイトを転々とした後、西荻窪のシャンソニエ「プチ・メゾン」で歌い始める。銀座の「鳩ぽっぽ」や赤坂の「ブン」などのシャンソニエで、レジをしたり、歌わせてもらったりした。年の近い歌手がステージで歌っていると、レジを打ちながら悔しい思いも。つい顔に出て無愛想を叱られた。歌に専念できない日々に悶々としたが、1979年頃から次第に“すごい新人がいるらしい”と、シャンソン界で噂になっていく。

銀巴里時代

1980年、24歳。銀巴里のオーディションを受け合格。門前仲町から自転車で通う。美輪明宏や金子由香利の前座を数年務めた。
当時、銀巴里とビクターは人気歌手のLPレコードを、シリーズでリリースする事になっていた。そのラインナップに夏子は新人ながら異例の抜擢。が、歌手とメーカーの関係がぎくしゃくし中座、夏子のアルバム「愛をもとめて」は1982年、インディーズでDISQUE銀巴里から発売された。“保坂夏子=ブラック・ダイヤモンド”と美輪明宏がライナーノーツに書いている。「ほさか嬢はこれからの人である。世に認められるのは十年先、二十年先かもしれない。ちょうど私がそうであったように。天才は生きている間はいつの世でも不遇であるのだから。故にこそ、唄もまた冴えるのである。私は彼女の唄が好きである」。
LPジャケットの写真はオーナー作本正五郎氏が撮影した。新人ながら身に余るほどの高待遇。

銀巴里で歌う多くの歌手はアルバイトをしたり、他の夜店でも歌っていた。往々にして歌の鮮度が落ちていく。その轍を踏ませないよう、作本氏は事務員として夏子を雇い、若いバンドと昼の部にも出演する機会を提供した。

原詞を理解するため外国人教師にフランス語を学びにも行った。教師夫妻は銀巴里を訪れ、終演後こう言った。「あなたはピアフです」。

外国人客の中に、有名時計宝飾メーカーの社員がいた。“知り合いのピアニストもいるから、一度フランスに来ないか?”と望外の薦め。半信半疑だったが次第に気持ちが傾き、渡仏。
ポンピドーセンター前で、ストリートミュージシャンよろしく投げ銭用の帽子を置き、歌ったりした。そのくせ、彼が連れて行ってくれたピアニストの店では、歌えと懇願されてもつまらない自負心から歌えなかった。3ヶ月で帰国。
銀巴里に戻るとその奔放過ぎる行動から、潮が引いたように空気が冷えていた。

銀巴里最後の日

1990 年12月、銀巴里最後の日。ラスト3日間は美輪明宏公演で長蛇の列ができた。入りきれない客の前で夏子は歌った。
公演終了後、たまたまボイラー室に居た夏子は、多くのマスコミに囲まれた作本氏のインタビューを聞いた。「こんなに目をかけても、幹は太くなり、切るに切れない。葉っぱは固くなり、花は咲かない」。

銀巴里後

銀巴里閉店後、標を失う。夜店のシャンソニエで歌ってもみたが、歌手の本文を求められなかった。演者にはたくさん酒を飲む顧客を動員してほしい。出演依頼があっても2度と声はかからない。「君の歌がわからないようなら世の中おかしい」と認めてくれた店は潰れた。見得を切るかのように、歌わない選択をする。歌手本来のエモーションを認め育ててくれた“銀巴里”。有り難みが身に染みた。そして写譜などの仕事を時々しながら、専業生活を送る。

長いブランクを経て

音楽などなくても生きていけると、好きな曲さえ聴かない暮らしが長く続いたが、ある日、無意識に歌を口ずさむと涙がとめどなく溢れ、歌を歌わなければ生きられない事に気づき、魂に火がつく。

2010年、新しいミュージシャンやプロデューサーとの出会いがあり、還暦を前にして再挑戦を決意、再びスタートラインに立つ。実母の介護をしながら歌い、2015年に見送った現在は、義母の介護もしながら歌い、定期的にライブ活動を行なう。レパートリーも増え、ハンドマイクで歌う事すら嫌がった偏狭さを次第に克服していった。

2016年、薬局の調剤室で撮影した「調剤室コンサート」をyoutubeで動画配信。収録曲の中の“je suis malade 灰色の途”には、フランス、イタリア、ドイツなど、欧米からコメントが寄せられるようになった。ライブにはyoutubeで見つけたユーザーが、遠方から訪れるようになる。

ピアノを中心とした演奏スタイルと一線を画し、バンドサウンドに向かう。
Gt.白土庸介、B.立原智之、keyboard.フレデリック・ヴィエノと夏子サウンドを確立、新たな世界へ踏み出している。新しいヴォーカリストが、遅れてやって来た。

=== Side Story ======================

父のこと

作本氏の知人の店で、しばらくの間、仙台で歌っていた頃の事。親戚から、父が福島県二本松で暮らしていると聞いた。会いに行った。お互いもう飲むしかなくて最後は取っ組み合いのケンカになった。気づけば彼女の服は血まみれだった。父と会ったのはそれが最初で最後。それから数年して父は亡くなった。死に目には会えなかったが、彼が使っていた置時計をもらった。

若葉荘と母

母娘は上京以来、中央線沿線を中心に、思い出せないほど引越しを繰り返してきた。特に忘れがたいのは、1984年頃、母が管理人にもなった三鷹の「若葉荘」だ。木造風呂なしのこのアパートには、無農薬農業家、サラリーマン、ヌーディスト、外国人など雑多な人々が暮らしていた。管理人室だけに付いている風呂を、母は大家に内緒で住民に解放した。秋は芋を焼き、春は梅の開花を見て、住人たちは度々庭に集まったという。浮世離れで自由奔放な本当に楽しい暮らし、ある意味でユートピア。アパートが解体された後も、毎年みんなで集まった。ヌーディストの彼は、世話になった御礼に母の口座に毎月1万円を、母が死ぬまで振込み続けた。働き続けた母を2015年、見送った。